配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

目を閉じる度にあの日の言葉が消えてゆく

あの人のにおいをもう思い出せない、ということに気付いたのは、その年の10月の頭の日曜日に駅に向かって歩いてる時で、そこには金木犀の香りばかりが立ちこめてた。それは、最後にあの人と会ってから実に1年と2ヶ月後のことだった。この1年と2ヶ月は、記憶が少しずつ少しずつ消えていくのに抗い、それでも抗うことは出来ないことを知ることしかできない時間だった。

 

本当に、忘れてしまうんだなぁ。嘘みたいだ。
あの人と観た映画での引用を思い出す。

 「いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう。」とベルナールは静かに言った。
 「そして、いつかぼくもまたあなたを愛さなくなるだろう。われわれはまたも孤独になる。それでも同じことなのだ。そこに、また流れ去った一年の月日があるだけなのだ」

 

そう、1年。
誤差の範囲で寿命が200年になる人間がいないと同じに、この感情も記憶も全て何もかも1年も経てば血中濃度は半減してしまう。そして、緩やかに消えていくだろう。

私は、そんなことになる前に、死んでいまいたいと願っていたけれど、やっぱりそれはそんな簡単なことではない。死ねないということ、あの人のいない未来を生きると言うこと、あの人のことを忘れていくということ、全てそれを受け入れるしかない。あんなに強く思った人のこと、そのニオイも手の温かさも、何もかも全部忘れてしまうのだったら、一体全体私は何を覚えていけるんだろうとも思うし、同時にたぶんその答えは「何もない」なのだろうということも理解している。息をするように、細胞が新しく新陳代謝するように、大事な記憶を忘却するように出来ているんだ。

 

きっと、今のあの人は、もう私の好きなあの人ではないかも知れない。時間とともに少しずつ変わって、私が好きだった頃と変質しているかも知れないから、今私が思い出したいと思っているあの人はそもそもこの時間軸には実在しないのかも知れない。
私だって、もうあの人の知ってる私とは違うのかも知れない。
或いは、きっと、君は、私がいたことすら、忘れているかも知れない。
でも、それをどうこう言うことなんて出来ない。私だって、もう、覚えているのが君なのか神様なのか見分けがつかない位だ。

 

あの人がいなくなったことよりも、あの人が私を忘れていることよりも、私があの人を忘れたことが重大だ。何故ならそれは自らへの強い強い不信だから。
思うのだけれど、誰か、すごく好きな人を持ったことがある人間は、自分の愛情を二度と信じられないんではないかしら。
恋をして、その恋を終わらせたことがある人間は、次の恋の関係性も、また終わるんではないかと怯えるものなんじゃないかしら。
だって、すごくすごく好きだったのに、好きじゃなくなったことがあるっていう経験は、今、すごくすごく好きな人を、好きじゃなくなる可能性があるって言うことでもある。

われわれはまたも孤独になる。

 

本当は、もう、今になって今のあの人にあっても意味なんか無いな、と思う。
叶うなら、あの頃の私になって、あの頃の君に、もう一度会いたいなぁ。

そうしたらきっと、もう一度仲良くなって、もう一度好きになって、どうせまた駄目になるだろう。けど、その課程をもう一度体験したい。私、何一つ間違えることなく同じ道を辿ると思う。そのくらい後悔はない。あの、強く押し流される強度。ただ一つ、本当に後悔することは、私が忘れ続けていくことを止められなかったことだけれど、それもいたしかたのないことだった。

もう、到底歩き続けることなんて出来ない?いいえ、でも、もうすぐに冬が来る。一人きりでも季節が変わることにだってもう慣れている。きっと、あの頃より私はずっと大人になったに違いない。それにしたって、大人は、なんて孤独なんだろうか。