配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

目眩がするくらいに慎重に歩く

「結婚が決まると、大嫌いになってしまうの」
と、湯川さんは途方に暮れたように言った。

隣の原田が、氷の溶けたアイスコーヒーを啜う。沈黙。「その、つまり」彼女は斜め上にある何かを睨みつけるような仕草をして、「あなたが断っているってことなの」と尋ねる。

 

原田がそういうのも当然で、彼女が結婚の夢を語りだしてからもう5年が経つ。別に、大それた夢でもない。「普通」に結婚して、子供が産みたいという、例のアレだ。そんな話を聞きながらわからないような顔をしていた原田は、昨年あっさりと結婚した。まあそんなものだよね、と僕は思ったけれども。

そういうことはあるんじゃないの、と僕は言う。あるよね、ほら、あんなに押したり引いたり押したりした挙句いざセックスとなるとなんかもう帰りたくなるっていうかさ、と続けたら、原田に脇腹をどつかれた。

でもきっと、ある意味そういうことなのかもしれないなぁと湯川さんがのんびりと言う。湯川さんは、骨格が細めで色白で、年齢よりよっぽど若く見える。そして、頭の回転は早いのに、ゆっくりとしゃべる。僕は「馬鹿の真似はやめろよ」って忠告するけど、おっとりしたところだって、彼女が気付いていないだけで魅力的だと感じる男はいるだろう。

わたしねえ、きっと、実践してみて落胆したくないのよ。とてもつかれている気がして、これ以上何かがっかりすることなんかがあったら、到底耐えられるような気がしないの。セックスをするっていうのもそうかもしれないけど、わたしは、誰かがわたしのために何かを決断するみたいなことをしてくれたほどの思いの瞬間で、そこから先には行きたくないの。

なるほど、17歳のようだな、と僕が言うと、彼女は笑った。私、17歳の時は好きな人がいなかったので、今取り返さないといけないのかも、という。それもなるほど。たしかに僕も17歳の時は湯川さんに似た人が好きだった気がする。けれど、あの子は今はもう、似ていないだろう。

 

「でもさ」
「でもさ、そういう失望の、連続じゃないの。何に関したって」

原田は27歳の顔をしている。

「何かを取り返そうなんて、そんなの、おかしいよ」

失い続ける覚悟をした人は、目が違う。それはおそらく、彼らがもう体感的な生きる時間は折り返しにきたこと、このまま徐々に思考も身体も衰退しておまけの人生を生きていること、何も取り返せないことそのものに絶望していることにほかならないだろう。僕にはしばらくはできそうにない。

 

冬の踏切で死んでくれようとした人のことも、夏休みの終わりの枯れた向日葵のことも、冷たいアスファルトの感触のことも、湯川さんは何も知らないんだ、と僕は思う。原田が見てきて手放してきたものを、湯川さんは見てない。湯川さんは、ずっと、綺麗な家庭を想像してる。そこに適切な登場人物なんて、きっと実在しないだろう。

 

「どうして、原田は、今の人と結婚したの?」と不思議そうに湯川さんが尋ねる。もし彼女が原田の立場でも、原田の夫とは、結婚できないだろう。彼は適切ではないから。

 

別に、ベストのものを手に入れなくたっていいと思っているから、と原田は答えた。

みかんを買う時だってさ、別にどれか唯一のものがあるわけじゃないじゃない。一番手前側にある群の中で、それなりに綺麗で問題の無さそうなものを選んだ、中身はわからないけれど。そういう風に見るしか無いじゃない。

僕は、それは原田の自信だなぁ、と思う。でもそれは言わない。