配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

笑いたがる人には、キスを

背筋を伸ばして生きる。

まだこの街に慣れていないから、最寄りのスーパーで醤油を売ってる場所を探すのに手間取る。本当は週末にまとめ買いしておけば効率がいいことは解っているけど、毎日その日に食べたいものを考えて食材を買うというシンプルな贅沢から離れられない。

引っ越してようやく、先に帰っているかな?という気持ちで部屋の電気を確認するのをやめられた。結局のところ、形は違えどずっと待っているだけ、という状況を変革するには、単純に古い場所を捨てることが必要だった。ようやく、私は、欠落を感じなくなる。不在を気に留めなくなる。私の中で、本来在るはずだと思っていた存在は綺麗にデリートされていて、遠い空のどこかに実在しているなんてもう信じられない。きっと、街であったら凍り付いて悲鳴を上げちゃいそうになるに違いない、と思って少し笑う。まるで幽霊を見たみたいな気持ちになるだろう。

 

仕事が終わってから、自分で食事を作って食べるのは、正直億劫なこともある。
けれど、料理をして、食べることは重要だ。日々包丁を握って、簡単だけれど栄養のあるものをほんの少しだけ作り、暖かいうちに食べるということは、日常の強度というものを強く感じられる。現実の手触りと言うこと。自分の手で生活をマネージして自分の力で生きると言うこと。食べることが好きな訳じゃないけれども、好きも嫌いもなくそこに確からしさがある。手から口へ、なんて言うと酷く困窮しているみたいだけれど、働いて、お金を稼いで、自らの手でご飯を作って、食べるって言うことだけが持つ正しさがあると思う。それが、日常というものの強度だ。

不思議だなぁ、昔は、あんなにも終わりなき日常に怯えたものなのに、今は日常というものの確からしさに支えられている。原発は爆発したけど、日常は終わらない。終わりなき日常というものは、本当に強敵過ぎて、到底打ち倒せない。その中で、ゆるやかだけど確実に年を取っていくのだ。

年相応に、年齢を重ねていきたいなぁと思う。若く見える必要なんて無くて、もう十分に大人で、それを認識し続けるように意識し続けないとすぐに忘れてしまう。

 

私は、少しのロマンティシズムと闘争心を抱えて、しなやかに強靱でセンシティブな大人になっていっているんだ。
時に卑怯であること、間違いを犯すこと、理性を失うことはあるが、愚かでいてはならないということ。
愚かでない自分に誇りを持つということ。

16の時から漠然と思っていたけれど、あの頃の期待に応えないといけないな、と思う。もちろん、私は、あの頃持っていた多くの選択肢も可能性ももう持っていないし、普通のしがない労働者でしかないわけなんだけれども、問題はそういうことではない。私が本当に志向しているものの形が、ぼんやりとだけど見えていて、そこからそう遠くは離れていないことを感じるために、現実感を得ることが必要なのだ。

だから、時折昔の夢を見ると、もう解放されたいなぁとも少し思うと同時に、それでもこれを全部引き連れたままでもきっと私は大人になれるはずだ、って思う。新しい場所でも、きっとうまくやっていける、って思う。河川敷に死体が埋まっている物語を、今も覚えているとしても。