配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

私が考える「人と別れる」と言うことのイメージ

私は、交通量の多い道を跨ぐ歩道橋の上に箱を抱えて立っている。
その中には、私が5年間愛して飼い続けた犬がいて、切なげな目で私を見ている。きっと、私が今からしようとしていることを、知っているんだろう。

 

でも、仕方ないことなんだよ、と思う。この子と来たら、本当に頭の先から足の先まで私が愛してあげたというのに、全然満ち足りなくていつもおなかをすかせていて、仕舞いには私の左足をすっかり食べてしまった。私は痛くて泣きたくなって、犬を歩道橋の上に置いてきてやった。2日もすれば家に戻ってきた。犬はそんな扱いをされたことについて、わかるようなわからないような顔をしていた。

それから一年経っても、犬の空腹は全然収まらなくて、すっかり私の右腕も食べられてしまった。私はいつも痛いと言ったけど、犬は冗談か何かだと思っているみたいだった。私は、どうしたら、本当に痛いってことを伝えられるのか、わからなかった。

「アンパンマンじゃ無いんだからさ」と私は言った。犬は、「だけれど、僕はおなかがすいているし、君が僕が満足するだけのご飯をくれないのが悪いんだし、君が僕を好きなんだとしたら、当然のことじゃ無い?」と聞いた。
私は、よくわからなかったから、黙った。

 

そうして過ごしてきたけれど、昨日の夜に失った右手の痛が止まらなくて、急にもう無理だなぁ、と思ったのだ。このままじゃ、この子は仕舞いに私の心臓まで綺麗にぺろりと食べてしまうに違いない。そう思った瞬間に、もう全く愛していないことに気付く。「もう好きじゃ無いな」と布団にくるまって声に出して言う。

「もう、全然好きじゃ無いよ」

 

私の、深い深いところで、押さえられないくらい激しい怒りの奔流が巻き上がってることは解ってた。でも、この子は私の痛みがわからないのだ。私が、本当に、怒っていることも解らないのだ。

この怒りは、赤色。熟したトマトがアスファルトにぶつかって潰れたような、赤色。実在しない痛みに耐えて、真っ赤に染まる夢を見るんだ。

 

そうして私は、今この歩道橋の上に立っている。
下ではひっきりなしに車が往来していて、それを犬は不安げに見ていた。
きっとこんなことをしたら、死んじゃうだろうな、と私は思う。
だけれど、これは、仕方が無いことなのだ。こうしないと、私は、いつか食べられて透明になってしまう。

よいしょと声を出して箱を持ち上げる。不安定に揺れて、犬がクゥンと鳴いた。一瞬、子犬の頃のことを思い出して、かき消す。
これは、仕事なのだ。もう決めたことなのだから、予め決められたとおりに、適切に処理をするのだ。集中して、それを行わなくてはいけない。でないと、私は食べられてしまう。或いは、その前に怒りに飲み込まれて、違う生き物になってしまう。こんなにこんなに息苦しいほどに、私は怒り狂っているのだから。

 

そうして、往来へ向かって箱を放る。
気がついたら夕暮れになっていて、場違いな5時のチャイムが鳴り響いた。
僕は、目を瞑って、全身で呼吸を整えて、家に向かって走る。

死んでしまっただろうか?きっとそうに違いない。もう会えないし、もうきっと死んでしまったに違いない。

でもこれは、正しきことなのだから。これしかなかったのだから、走る。だって、もう全然好きじゃ無かった。ただ、怖くて面倒で手に負えなくて、私はどんなものも愛せないくらいに冷たい身体になっていた。

 

烏が鳴いて、空がゆっくりと濃紺に変わる。
家までたどり着いて、ドアを開けて、しっかりと鍵をかけた。
そのままうずくまって、呼吸を整える。ああ、このまま意識が飛んでしまいそうだ。そして、次に目が覚めたら、きっと私は、もう犬を飼っていたことを忘れているだろうと思った。

エヴァQの話でもすっかね

観てきましたよ。
うーん、求めてたものと違ったんだけど、「この裏切られ感がエヴァだよね!」って思うべきなの?そんなドMになれないなぁ。

 

僕は結構、前作の破が、構成がしっかりしていてしっかりアクションシーンを見せるエンタメ作品としてできてたことを評価してたのね。1回目では何者にもなれなかったシンジくんの「綾波を…返せっ!」も、「大人のキスよ」で送り出すことしかできなかったミサトさんの「行きなさい!シンジ君!!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」も評価していたのね。
だって、僕ら、14年も経つのよ。2回目をやるなら、進めるはずじゃない。You can advance であるべきなのだよ。暁美ほむらを見ろよ!

 

それが今回この状態なので…。

いや、もちろんそういうシンジくんの精神自体が一番問題なんだけど、一方で作り自体も破よりかは荒かった気がしたなぁ。ああいうエヴァンゲリオンらしい謎単語を連続する感じが好きだというのなら好みかもしれないけど…。カヲル君に関しては1回目もそうだったのでもうしかたがないといえばしかたがないのかもしれないんだけど、キャラとして不自然すぎるので、何故突然現れてシンジくんの心を掻っ攫っていくのかがよくわからない。一緒に行った人が、「カヲル君は、中二病の権化みたいになってたな…」と言ってた。まあそうだよねえ。


加えて、2回目ではあれだけの覚醒を果たしてたシンジくんが、「カヲル君が言ったから僕は槍を抜くんだよ!」っていう展開が僕を置いてけぼりにした。これは、同一の、本当に2回目のシンジくんなの…?1回目でもここまでの人の警告を無視した自爆行動って無かった気がするし、誰なの状態というか…。
アスカが「ガキシンジ」を繰り返すのが伏線(?)なんだろうけど。。
「アスカが『ガキシンジ』と言ったから、シンジは『ガキ』でいいじゃん!」という以上の説明が為されてないので置いてけぼりですよ。
本来的に言えば、シンジくんはバカシンジかもしれないけど、ガキシンジじゃなくなったから、2回目だったと思うんだよね。それがadvanceなんだよ。それが、戻ってしまった上に1回目とも違うキャラ造形な気がして混乱が…。こういうのは、作りの粗雑さの問題だと思う。もうちょっと、「どうしてガキ化したのか」を第三者が納得できるように説明できないと。

 

まあ、僕は序もイマイチだなと思っていたけど破は良かったと思ってるんで、次で巻き返す可能性はあると思ってる。けど、どうかなぁ、Qで今回これだけの謎バラマキ(それこそ「Q」だね)をしてしまったので、それを回収できるのかどうかはわからない。
ただ、どうやら次作でも終わらなそうな気配を感じたので、長期戦過ぎないですか?とは思っている。


今回「昔のシンジに似てる」と言われるシンジくんを観て思ったけど、僕もういい年になっちゃったのもあって14歳の激しいハートの揺れ動きの描写に徐々についていけんくなってるよ。ウェブ上で見かけた批評に、

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「14年」というのは、もちろん『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の公開が1997年であり、そこから14年経ったということと重ね合わせている(正確には15年経っているが)。
「14年間いろいろなことがあったのに、あんたは全然変わっていないじゃないか」という皮肉を突きつけている。

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というのがあったけど、僕、もう出来うる限り全力で14年間大人になってきた自覚があるからなぁ。僕からしてみれば、彼らだけ14歳のままでなんて、無くて良かった。あの頃、一緒に苦しかったあの子たちが、一緒に成長して、戦ってくれてたほうが良かった。それがビジュアル的にそれが問題があるのであれば、例えば身体は成長しないけど中身だけでも14年分年をとってる、とかだって良かった。(ちなみに、エヴァの呪縛っていうか、アスカは使徒とのキメラになったのかなと思いました。眼帯裏が青く光るし)

破とQの間にだって、僕結婚しちゃってるし、このあとラストまでの間に子供でもよしんば生まれちゃったら(次作で終わらないならその可能性は割とあ るんじゃねーの。完結まで3年くらいはかかるってことでしょ)そんな状態で、「父さんは、僕を認めてくれないんだ!エヴァになんて乗らないよ!」とか言っ てるのを、当時と同じ気持ちで見れるのか。

…無理だ。もし見れるなら、あまりにadvanceしてなさすぎるのよ。そして、言っとくけど、確実に我々は、You can not redo. の時間軸を生きているんだよ。

 

この、庵野の向いてる対象が「お前ら、14年間、何やってたんですか?」っていう人たちだということそのものがエヴァの対象層では僕がないってだけなんだけど。(あの1回目での「オタクよ、現実に帰れ」のメッセージも、『いや…、まあ、現実は現実でそれなりに大丈夫なんで…』って思ってしまったので、そもそもそれに耳が痛くなるコアターゲットではない)

 

 

君の願いはちゃんと叶うよ 楽しみにしておくといい

僕もいい年になったので今考えることを少し書いてみる。

最近すごく考えていることは、僕は昔よりも「実践」に価値を置くようになったなぁということだ。ここでいう実践って言うのは、「決断」という意味に近い。もっというと、「プライベート的な決断」だ。去年僕は結婚をして、こうして暮らしているわけだけど、これってすごい決断だと思う。自分がこんな決断をすることが可能だなんて全然思っていなかったんだ。
僕は、何かを迷いに迷って決断したわけじゃ無い。強い流れと理性じゃ無い感情による確信があった。
でも、僕は確実に20代は20代なりに積み重ねてきて、自然と決断できるような自分に少しずつ変化しているんだという感覚を肌で感じる。
これは、間違いなく、大人になっているって言うことなんだと思う。僕は、あの頃の僕らが笑って軽蔑した恥ずかしい大人になっているんだろうか。でも、半径5メートルの決断こそが人生なんだって思いはじめている。


考えてみれば、22をすぎてからというもの、決断の連続だ。
就職活動から始まって、自分自身の稼いだお金で暮らすって言うこと、誰か一人をきちんと愛すると言うこと、結婚するって言うこと、子供を産むかって言うこと、そしてその間に自己同一性をどれだけ保てるのかって言うこと。いかに、変わらないままで変わるのかみたいなギリギリの選択を迫られている感じがヒリヒリする。
それに僕が成功しているのかはわからないけれども。(少なくとも、大事だった友人を諦めた時に僕は何かを失ったようにも思っている)

ものをよく知っている人がずっと好きだったんだけど、ようやく僕は、結局誰か一人を愛し抜くことも、何年もつきあった彼女と結婚を決めることもできないけど理論だけは立派な男の子はちょっとつまんないなと思い始めている。彼が幾ら男女雇用機会の均等や出生前診断の可否や尊厳死の可否や何かについて語ったって、それはちょっと上滑りしすぎる。それは語らなくて良いことじゃない。知って思考して語り続けることはもちろん基本だ。それでも、僕はそれを少し前まではただの議論のテーマとして扱えたけど、今や僕にとっては実践テーマになってしまっている。僕は、それの一つ一つについて現実的に決断をしなくてはいけなくなっていて、それはすごくリスキーで、冒険だ。幾ら理論を振りかざしたって、「どう選んだらどうなるのか」が解らない世界に突入している。それを、切り開いて歩く。それは、(あの16の頃の真っ暗な森とは全く風景が異なるにしても)深い森を歩くような体験だ。どうすれば幸せになるかなんてわからないけど、僕は幸せの実践に着手してる。このゲームは、成功するのか全く先が見えていない。

30過ぎにもなって学生時代とおなじままに実家に住んでるあの子も、専業主婦に収まったあの子も、結局一緒に働く女性というロールを果たすことなんか全然叶わなかったあの子も、なんだか遠くに行ったみたいに感じる。酷く孤独感がある。
同時に、子供を産んだ古い友人のこととか、海外に一人で飛び出すことに決めてしっかりやっている友人であるとか、躊躇を見せずに (ある意味僕と同じように)強い流れと感情でパートナーと生きていく決断をした人とか、僕と生きていく決断をした彼がいることとか、そういうことの方が心強く思える。

そう、もちろん、僕たちは、あの16の頃の僕たちを手放す気は無い。本当はずっとこのままでいたいって気持ちもある。けど、それでも、風が吹いたら、鐘が鳴ったら、西で稲妻が光ったら、飛び降りなければいけないのだ。走り出さなければいけないのだ。あの頃の自分の手を離さないで、ギュッと手を握ったまま、その子を連れて目を瞑って暗いところへ飛び込むんだ。怖い、怖い、本当にいつだって泣きそうな気持ちになる。「きっと大丈夫だよ」って、震える昔の僕に囁きながら、泣き叫びたいのは僕の方だ。大丈夫かどうかなんてわからない。でも、風が強く吹いている。

同じように決断している人たちの背中が見えるけど、それは同時に道を分かって独立していくことのようにも見える。どうかどうか、僕たちのテレパシーがこれからもずっと届きますように。先が見えない恐怖心や猜疑心に分かたれませんように。一つのことが同じで無くなったから、全てが食い違うように思いませんように。僕は言葉を発し続けなくっちゃいけないんだ。それで何かが届くかはわからないにしても、それしか方法が考えつかない。

ああ、なんて、遠くまで来ちゃったんだろう。
世界が怖くて泣いてしまいそうだ。
昔と何も変わらないな。
きっと、あの頃見てた、大人もそう思っていたのかなぁ。
恋をして、人を傷つけて、夜を怖がって、煙草を吸って、いろんなことを決断して、こんなところまで来てしまった。
まだ先は長いみたい。でも、本当は、そんなには長くないかも知れない。

誕生日おめでとう。
あの小さな僕が泣くから、抱きしめられるくらいに大人になる。
失い続けるのがわかっていて、怖くて怖くて、息をするのが精一杯だ。
でも、ちゃんと前を向いて歩いたら、期待以上のものに出会う。
僕はその覚悟ができてるはずだ、きっと。

 

あたりまえ、ってあの夜に、彼は言い、 世界ってなに、あたしが言った

あの雪の日にトーマが陸橋から飛んだ時から、私の愛情というものは定義されてしまった。まだ色つきじゃない既成概念なしの子供だった私は、右手と左手のつながっているような幼い手袋をして、白い息を吐きながら雪虫を目で追って走った。じきに冬が来るだろう。あの小さなトーマが残したように、愛というものの実在を信仰して生きなければ、寂しすぎる、と吐く息の数を数えながら私は思う。透明な何かに向かって、身を擲つような愛があると仮定した世界に生きていくのだ。その頃私は、3歳の頃から信じていた神様の不在への疑念に心を痛めていたから、新しいものを信仰したかったのかもしれない。存在するかわからないものを存在すると規定した世界で生きていきたい。世界が実在するかも解らないのだから、確かにあると規定したものがある世界で生きていきたいの。強く信じていたらきっと、私のことを忘れないでいてくれる人がいるに違いない。忘れられない人間になりたいんだ。彼の目の上に、永遠に生きる。私の中の大事な人を忘れないで生きる。きっと、これからだってずっと。

25にもなった自分は、もうすっかり大人になってしまったけれども、半透明で不確かな膜に包まれた架空の世界を手探るように生きている。
あの人は私が仮定した実在、規定した信仰。
私の定めた確からしさの指標。
暗闇の先の霞むような光。
彼ならこの行いをどう思うだろうか、と思いながら生きると言うことに慣れきっている。そんなものは本当は実在しないことを知っている。でも、仮決めでも神様がいないと、辛すぎるってだけにすぎない。


久しぶりに会った彼は、昔と変わらないようにも見えた。「なんでいつもそんな暑そうな格好をしてるんだよ」といって彼が笑う。『いつでも酷く寒いんだよ』と私は答えて帽子を目深にかぶる。あの冬の日の冷気を少しいつも持ってきてしまっているみたい。
私たちは、1年に1回彼の誕生日に会っては、ただ東京砂漠を歩いて歩いてカフェにたどり着いて、本屋にたどり着いて、解散するだけ。なんなんだろうね、こういうのって。15歳を引きずりすぎてるんじゃなかろうか。
私の幼な友達でもある特別なこの彼が、永遠に私の神様でいてくれたらなぁって思うし、それはきっと無理だろうとも思っている。信仰とは移り気なものなのだ。ただ、最後の日にも忘れられたくないと思う。きっと、消えないように傷つける以外、忘れられない方法なんて無いと今ではわかっている。

同じ本を取ろうとした指先が触れて、そんな熱に意識がいく。
僕らの愛の仕草のデフレ。
まるで子供みたいだ。
不当に高く評価された接触。
「これは実在しないことだよ」と耳元で囁く声がする。
私は耳を塞ぐ。

 

本当は私だってこんな年齢まで生きているはずじゃ無かったし、彼のように陸橋から飛べば良かった、いつだって。
目を瞑ってあの雪の日を思い出す。
最後まで、優しくありたいと思う。
最後まで優しくある私を、あの人が忘れられなくなれば良いと思う。私の神様を、甘やかしてスポイルして一人では生きていけないようにしてしまいたい。優しくて見苦しい私を君が見破ったら良いのにと思う。いいや、違う、君はきっと知っているのだろう。君はきっと、諦めの悪い私が見ようとしないでいる本当のことだって知っているのに違いない。
煙草の煙が空に上がっていくのを目で追う。彼もあんな風に空に上ったんだろうか。「みんなどうやって生きて行ってるんだ」と口に出していってみる。みんな、どうやって生きて行ってるんだろうな、本当にさ。

ごめんね もう二度とあえないような そんな気がして 運命が笑う

今、僕の家が燃えてるんだよ、と1月の寒い日の午後4時半にいきなり電話をかけてきた先輩は楽しそうに言った。私は何かの冗談かと思い、今日は空気が乾燥しているから実によく燃えそうですね、と答えた。先輩は、そうなんだよ、でも信じてないだろうお前、と言って笑った。

後日解ったことであるが、事実家は燃えていた。
おそらくは漏電が原因だと言うことであるが、彼の兄の部屋で発生した炎は乾いた空気の支援を受け燃えに燃え、あっという間に2階を飲み込んだ。平日日中という時間帯もあり、在宅だったのは一階にいた彼のお母さんだけで、そのお母さんも無事に逃げ出したので人的被害はなかった。連絡を受けて慌てて帰ってきた家族は、ぼうぼうと燃える家をぼんやりとして眺めることになったということだ。

いやあ、もう、どうしようもないものなんだよ。燃えているからさ。と次の日登校してきた彼は言った。学校に来てる場合なんですか、と私は言ったが、彼は腕組みをしてやれやれと首を振る無言のジェスチャーをするばかりで意図はよく分からなかった。

一連の火災画像・動画を見せながら、兄貴の部屋から出火したんだけどさぁ、延焼した俺の部屋で、天井裏においてあったキャンプ用のガスボンベに引火したようなんだよ。いや、見事だったね。実に見事な大爆発だった。これのおかげで大黒柱が倒れたんで、所謂全焼扱いになることになって、火災保険が全焼分で出ることになった。ガスボンベ様々だ、と彼は言った。

私は、彼の趣味であったキャンプのガスボンベが、図らずとも彼が2歳から22歳まで育った空間の大黒柱を吹っ飛ばす場面を想像した。うーん、家が燃えるって、どんな感じなんですかね、と私は尋ねた。それだけ長くの生活をしたら、積もり積もる記憶の痕跡があるわけじゃないですか。それがある日火に飲まれるって、ちょっと想像が付かないな、と口に出してみたら、彼は、確かにね俺のこの気持ちはなかなか人には語れないものがあるよ、と呟いた。

 

一週間後、焼け跡を見せてくれるというので彼の家(があった場所)へ向かった。
それは、本当に良く晴れた2月の初旬で、空が真っ青で空気がシャンとしていた。きっと今日でも実によく燃えただろうな、と思い、私の中に「家がよく燃えそうなほど良い天気」という概念が新たに産まれたな、と思った。

 

駅から家までの道のり、彼は雄弁だった。
曰く、一週間経ってみたら焼け跡はすごく美しいものに思えてきたと言うのだ。今まで、彼が幼い頃からの思い出も全部積み重なった場所が、燃えてぐちゃぐちゃになった挙げ句、でもまだそこにある。それらは紛れもなく「ある日突然失われたもの」なのに、その残骸が目の前に確かなリアルとしてある感じが、すごい良い、と満足そうに頷いていった。そして、なにより、自室から星が見える、と自慢げに彼は言った。そういえば彼は高校時代天文部で、センチメンタルにも部屋の天井に蛍光シールで星座をつくっているようなところがあった。まさか、その蛍光シールの星座達も、自らがガスボンベの爆発で屋根板ごとぶっ飛ばされた挙げ句に、ホンモノの星に取って代わられる運命にあるとは知らなかったに違いない。

 

確かに、「ある日突然失う」という衝撃的な事件ってあまりないし、記憶とか感情とかそういうものが刮げるように失われていくのは指の間から砂が落ちていくような喪失で、「無くなったもの、その痕跡がそこにある」ってないなぁと思う。少なくとも、私自身が今まで失ってきたものは、残り香のようなとらえどころのないものになって気が付いたら失われていた気がする。手で触れられる、かつてあった大切なものの残骸。

 

到着してみたら、本当に家が黒焦げだったので閉口した。
ほら、ここが出火源の兄の部屋。一番酷く燃えてるでしょ、と案内される。これ見て、と渡されたのは真っ黒な鯉のぼり。なんでこんなの残ってるんですかと笑うと、うーん何処の家でも捨て逃しているものじゃない?火事でもない限りは。と彼が言う。良き家に育てられてきた子なのだな、と思う。

そしてここが俺の部屋だよ、とドア(であった残骸)を開けた先の部屋は、天井が無くて、上を見ると真っ青な空が見えた。真っ黒焦げの部屋の中で、本がすごい量だったからな、全部消えてしまったよ、何冊あったんだろうなぁと彼がぼやく。そうだろうなぁ、本は彼を作った構成要素なんだろうけれど、まるで最初から何もなかったみたいに無くなった。本が入っていたであろう鉄製のラックは酷く変形し曲がりくねって現代オブジェみたいに部屋を占拠してた。

確かにすごく美しくて、胸を打たれた。真冬の空気を感じる真っ黒な部屋と真っ青な空。これは、ものすごく綺麗ですね、というと、そうだろう?来て良かったろ、と彼は自慢げに言った。

 

二人で真っ黒な部屋の中で空を見ながらたわいもない話をした。
共通の友人のうわさ話から、将来の話まで。
本当は話の内容なんかどうでもよくって、少しずつ赤く染まっていく空を見たかっただけ。このまま世界が終わるような幻想を抱く。まるで現実感のない空間。

 

一番星が見えたタイミングで、卒業しちゃうからきっともう会えないですね、とずっと思っていたことを言ってみた。うーん、と彼は少し考えて、そうだね、そんなことないよって言いたいけど嘘は良くないよね。きっと俺は、次の場に行ったら次の場に馴染んで変わるタイプだから、きっともう今みたいには会えないね、と軽く答えた。空が藍色に染まる時刻だから表情はよく見えない。私たちに許された特別な時間は、終わりつつあることは、二人ともよく解っている。「風が吹いたのなら、ちゃんと飛ばなくてはいけない」と彼が言った。

わかってる。だから、もう帰る、と告げて立ち上がる。送るよと言う彼を断った。良いの、ちゃんと、一人でいけるから。でも本当はそんなことじゃなくて、彼が私をおいていくから、私も彼を置き去りにして見せたかっただけだ。

この、彼の思い出が残骸となって冷たく美しくうち捨てられている場所に、一人で彼をおいていく。さよなら、次にもし会うことがあっても、あの部屋で夕暮れを見た二人じゃないね。満月が私たちを見てる。私の喪失はいつだって触れることは出来ないなぁ、と思う。

笑いたがる人には、キスを

背筋を伸ばして生きる。

まだこの街に慣れていないから、最寄りのスーパーで醤油を売ってる場所を探すのに手間取る。本当は週末にまとめ買いしておけば効率がいいことは解っているけど、毎日その日に食べたいものを考えて食材を買うというシンプルな贅沢から離れられない。

引っ越してようやく、先に帰っているかな?という気持ちで部屋の電気を確認するのをやめられた。結局のところ、形は違えどずっと待っているだけ、という状況を変革するには、単純に古い場所を捨てることが必要だった。ようやく、私は、欠落を感じなくなる。不在を気に留めなくなる。私の中で、本来在るはずだと思っていた存在は綺麗にデリートされていて、遠い空のどこかに実在しているなんてもう信じられない。きっと、街であったら凍り付いて悲鳴を上げちゃいそうになるに違いない、と思って少し笑う。まるで幽霊を見たみたいな気持ちになるだろう。

 

仕事が終わってから、自分で食事を作って食べるのは、正直億劫なこともある。
けれど、料理をして、食べることは重要だ。日々包丁を握って、簡単だけれど栄養のあるものをほんの少しだけ作り、暖かいうちに食べるということは、日常の強度というものを強く感じられる。現実の手触りと言うこと。自分の手で生活をマネージして自分の力で生きると言うこと。食べることが好きな訳じゃないけれども、好きも嫌いもなくそこに確からしさがある。手から口へ、なんて言うと酷く困窮しているみたいだけれど、働いて、お金を稼いで、自らの手でご飯を作って、食べるって言うことだけが持つ正しさがあると思う。それが、日常というものの強度だ。

不思議だなぁ、昔は、あんなにも終わりなき日常に怯えたものなのに、今は日常というものの確からしさに支えられている。原発は爆発したけど、日常は終わらない。終わりなき日常というものは、本当に強敵過ぎて、到底打ち倒せない。その中で、ゆるやかだけど確実に年を取っていくのだ。

年相応に、年齢を重ねていきたいなぁと思う。若く見える必要なんて無くて、もう十分に大人で、それを認識し続けるように意識し続けないとすぐに忘れてしまう。

 

私は、少しのロマンティシズムと闘争心を抱えて、しなやかに強靱でセンシティブな大人になっていっているんだ。
時に卑怯であること、間違いを犯すこと、理性を失うことはあるが、愚かでいてはならないということ。
愚かでない自分に誇りを持つということ。

16の時から漠然と思っていたけれど、あの頃の期待に応えないといけないな、と思う。もちろん、私は、あの頃持っていた多くの選択肢も可能性ももう持っていないし、普通のしがない労働者でしかないわけなんだけれども、問題はそういうことではない。私が本当に志向しているものの形が、ぼんやりとだけど見えていて、そこからそう遠くは離れていないことを感じるために、現実感を得ることが必要なのだ。

だから、時折昔の夢を見ると、もう解放されたいなぁとも少し思うと同時に、それでもこれを全部引き連れたままでもきっと私は大人になれるはずだ、って思う。新しい場所でも、きっとうまくやっていける、って思う。河川敷に死体が埋まっている物語を、今も覚えているとしても。