配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

私が考える「人と別れる」と言うことのイメージ

私は、交通量の多い道を跨ぐ歩道橋の上に箱を抱えて立っている。
その中には、私が5年間愛して飼い続けた犬がいて、切なげな目で私を見ている。きっと、私が今からしようとしていることを、知っているんだろう。

 

でも、仕方ないことなんだよ、と思う。この子と来たら、本当に頭の先から足の先まで私が愛してあげたというのに、全然満ち足りなくていつもおなかをすかせていて、仕舞いには私の左足をすっかり食べてしまった。私は痛くて泣きたくなって、犬を歩道橋の上に置いてきてやった。2日もすれば家に戻ってきた。犬はそんな扱いをされたことについて、わかるようなわからないような顔をしていた。

それから一年経っても、犬の空腹は全然収まらなくて、すっかり私の右腕も食べられてしまった。私はいつも痛いと言ったけど、犬は冗談か何かだと思っているみたいだった。私は、どうしたら、本当に痛いってことを伝えられるのか、わからなかった。

「アンパンマンじゃ無いんだからさ」と私は言った。犬は、「だけれど、僕はおなかがすいているし、君が僕が満足するだけのご飯をくれないのが悪いんだし、君が僕を好きなんだとしたら、当然のことじゃ無い?」と聞いた。
私は、よくわからなかったから、黙った。

 

そうして過ごしてきたけれど、昨日の夜に失った右手の痛が止まらなくて、急にもう無理だなぁ、と思ったのだ。このままじゃ、この子は仕舞いに私の心臓まで綺麗にぺろりと食べてしまうに違いない。そう思った瞬間に、もう全く愛していないことに気付く。「もう好きじゃ無いな」と布団にくるまって声に出して言う。

「もう、全然好きじゃ無いよ」

 

私の、深い深いところで、押さえられないくらい激しい怒りの奔流が巻き上がってることは解ってた。でも、この子は私の痛みがわからないのだ。私が、本当に、怒っていることも解らないのだ。

この怒りは、赤色。熟したトマトがアスファルトにぶつかって潰れたような、赤色。実在しない痛みに耐えて、真っ赤に染まる夢を見るんだ。

 

そうして私は、今この歩道橋の上に立っている。
下ではひっきりなしに車が往来していて、それを犬は不安げに見ていた。
きっとこんなことをしたら、死んじゃうだろうな、と私は思う。
だけれど、これは、仕方が無いことなのだ。こうしないと、私は、いつか食べられて透明になってしまう。

よいしょと声を出して箱を持ち上げる。不安定に揺れて、犬がクゥンと鳴いた。一瞬、子犬の頃のことを思い出して、かき消す。
これは、仕事なのだ。もう決めたことなのだから、予め決められたとおりに、適切に処理をするのだ。集中して、それを行わなくてはいけない。でないと、私は食べられてしまう。或いは、その前に怒りに飲み込まれて、違う生き物になってしまう。こんなにこんなに息苦しいほどに、私は怒り狂っているのだから。

 

そうして、往来へ向かって箱を放る。
気がついたら夕暮れになっていて、場違いな5時のチャイムが鳴り響いた。
僕は、目を瞑って、全身で呼吸を整えて、家に向かって走る。

死んでしまっただろうか?きっとそうに違いない。もう会えないし、もうきっと死んでしまったに違いない。

でもこれは、正しきことなのだから。これしかなかったのだから、走る。だって、もう全然好きじゃ無かった。ただ、怖くて面倒で手に負えなくて、私はどんなものも愛せないくらいに冷たい身体になっていた。

 

烏が鳴いて、空がゆっくりと濃紺に変わる。
家までたどり着いて、ドアを開けて、しっかりと鍵をかけた。
そのままうずくまって、呼吸を整える。ああ、このまま意識が飛んでしまいそうだ。そして、次に目が覚めたら、きっと私は、もう犬を飼っていたことを忘れているだろうと思った。