配電盤よ、安らかに

85%フィクションと15%の今はもう失われたもの

ごめんね もう二度とあえないような そんな気がして 運命が笑う

今、僕の家が燃えてるんだよ、と1月の寒い日の午後4時半にいきなり電話をかけてきた先輩は楽しそうに言った。私は何かの冗談かと思い、今日は空気が乾燥しているから実によく燃えそうですね、と答えた。先輩は、そうなんだよ、でも信じてないだろうお前、と言って笑った。

後日解ったことであるが、事実家は燃えていた。
おそらくは漏電が原因だと言うことであるが、彼の兄の部屋で発生した炎は乾いた空気の支援を受け燃えに燃え、あっという間に2階を飲み込んだ。平日日中という時間帯もあり、在宅だったのは一階にいた彼のお母さんだけで、そのお母さんも無事に逃げ出したので人的被害はなかった。連絡を受けて慌てて帰ってきた家族は、ぼうぼうと燃える家をぼんやりとして眺めることになったということだ。

いやあ、もう、どうしようもないものなんだよ。燃えているからさ。と次の日登校してきた彼は言った。学校に来てる場合なんですか、と私は言ったが、彼は腕組みをしてやれやれと首を振る無言のジェスチャーをするばかりで意図はよく分からなかった。

一連の火災画像・動画を見せながら、兄貴の部屋から出火したんだけどさぁ、延焼した俺の部屋で、天井裏においてあったキャンプ用のガスボンベに引火したようなんだよ。いや、見事だったね。実に見事な大爆発だった。これのおかげで大黒柱が倒れたんで、所謂全焼扱いになることになって、火災保険が全焼分で出ることになった。ガスボンベ様々だ、と彼は言った。

私は、彼の趣味であったキャンプのガスボンベが、図らずとも彼が2歳から22歳まで育った空間の大黒柱を吹っ飛ばす場面を想像した。うーん、家が燃えるって、どんな感じなんですかね、と私は尋ねた。それだけ長くの生活をしたら、積もり積もる記憶の痕跡があるわけじゃないですか。それがある日火に飲まれるって、ちょっと想像が付かないな、と口に出してみたら、彼は、確かにね俺のこの気持ちはなかなか人には語れないものがあるよ、と呟いた。

 

一週間後、焼け跡を見せてくれるというので彼の家(があった場所)へ向かった。
それは、本当に良く晴れた2月の初旬で、空が真っ青で空気がシャンとしていた。きっと今日でも実によく燃えただろうな、と思い、私の中に「家がよく燃えそうなほど良い天気」という概念が新たに産まれたな、と思った。

 

駅から家までの道のり、彼は雄弁だった。
曰く、一週間経ってみたら焼け跡はすごく美しいものに思えてきたと言うのだ。今まで、彼が幼い頃からの思い出も全部積み重なった場所が、燃えてぐちゃぐちゃになった挙げ句、でもまだそこにある。それらは紛れもなく「ある日突然失われたもの」なのに、その残骸が目の前に確かなリアルとしてある感じが、すごい良い、と満足そうに頷いていった。そして、なにより、自室から星が見える、と自慢げに彼は言った。そういえば彼は高校時代天文部で、センチメンタルにも部屋の天井に蛍光シールで星座をつくっているようなところがあった。まさか、その蛍光シールの星座達も、自らがガスボンベの爆発で屋根板ごとぶっ飛ばされた挙げ句に、ホンモノの星に取って代わられる運命にあるとは知らなかったに違いない。

 

確かに、「ある日突然失う」という衝撃的な事件ってあまりないし、記憶とか感情とかそういうものが刮げるように失われていくのは指の間から砂が落ちていくような喪失で、「無くなったもの、その痕跡がそこにある」ってないなぁと思う。少なくとも、私自身が今まで失ってきたものは、残り香のようなとらえどころのないものになって気が付いたら失われていた気がする。手で触れられる、かつてあった大切なものの残骸。

 

到着してみたら、本当に家が黒焦げだったので閉口した。
ほら、ここが出火源の兄の部屋。一番酷く燃えてるでしょ、と案内される。これ見て、と渡されたのは真っ黒な鯉のぼり。なんでこんなの残ってるんですかと笑うと、うーん何処の家でも捨て逃しているものじゃない?火事でもない限りは。と彼が言う。良き家に育てられてきた子なのだな、と思う。

そしてここが俺の部屋だよ、とドア(であった残骸)を開けた先の部屋は、天井が無くて、上を見ると真っ青な空が見えた。真っ黒焦げの部屋の中で、本がすごい量だったからな、全部消えてしまったよ、何冊あったんだろうなぁと彼がぼやく。そうだろうなぁ、本は彼を作った構成要素なんだろうけれど、まるで最初から何もなかったみたいに無くなった。本が入っていたであろう鉄製のラックは酷く変形し曲がりくねって現代オブジェみたいに部屋を占拠してた。

確かにすごく美しくて、胸を打たれた。真冬の空気を感じる真っ黒な部屋と真っ青な空。これは、ものすごく綺麗ですね、というと、そうだろう?来て良かったろ、と彼は自慢げに言った。

 

二人で真っ黒な部屋の中で空を見ながらたわいもない話をした。
共通の友人のうわさ話から、将来の話まで。
本当は話の内容なんかどうでもよくって、少しずつ赤く染まっていく空を見たかっただけ。このまま世界が終わるような幻想を抱く。まるで現実感のない空間。

 

一番星が見えたタイミングで、卒業しちゃうからきっともう会えないですね、とずっと思っていたことを言ってみた。うーん、と彼は少し考えて、そうだね、そんなことないよって言いたいけど嘘は良くないよね。きっと俺は、次の場に行ったら次の場に馴染んで変わるタイプだから、きっともう今みたいには会えないね、と軽く答えた。空が藍色に染まる時刻だから表情はよく見えない。私たちに許された特別な時間は、終わりつつあることは、二人ともよく解っている。「風が吹いたのなら、ちゃんと飛ばなくてはいけない」と彼が言った。

わかってる。だから、もう帰る、と告げて立ち上がる。送るよと言う彼を断った。良いの、ちゃんと、一人でいけるから。でも本当はそんなことじゃなくて、彼が私をおいていくから、私も彼を置き去りにして見せたかっただけだ。

この、彼の思い出が残骸となって冷たく美しくうち捨てられている場所に、一人で彼をおいていく。さよなら、次にもし会うことがあっても、あの部屋で夕暮れを見た二人じゃないね。満月が私たちを見てる。私の喪失はいつだって触れることは出来ないなぁ、と思う。